凸森の思弁的卵かけごはん

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岡崎京子『リバーズ・エッジ』雑論〜“まなざし“は“解釈”する〜

 今朝、私はコインランドリーへ向かった。私の部屋からコインランドリーへの道のりは往復5分程。非常に近いと言っていい。洗濯かごを抱えながら、“代わり映えしない風景”を、私は今日も眺めていた。その道中、私の眼に“代わり映えしない風景”の中で少し変わったものが飛び込んできた。それは台車を引いて歩く二人組のインド人。台車には“お弁当”“カレーライス”と書かれた旗が掲げられていた。インド人にしては少し肌が黒かった。そして彼らの眼は空中に浮んだ灰色を眺めるような、空虚さに帯びていた。私は彼らを見た時、どことなく哀愁を感じた。だがよく考えてみると、「“お弁当”“カレーライス”と書かれた旗が掲げられた台車を引いて歩く空虚な眼をした浅黒い二人組のインド人」を私以外の人間が見たとしたら、その時感じることは個々人で違うはずだ。また、何も感じることもなく、単なる風景として通り過ぎる人もいるに違いない。なぜこのような違いが生じるのだろうか?
 この二人のインド人たちが通り過ぎた後、私にはひとつのマンガのシーンが突然思い浮かんだ。そのマンガは岡崎京子の『リバーズエッジ』。主人公のハルナが学校の裏でかわいがっていた猫が心ないクラスメイトによってビニール袋詰めにされた後になぶられてぐちゃぐちゃになったものを吉川こずえが無邪気に「ハルナさん、みてみて」とハルナに見せ、それをみてハルナは泣きじゃくるシーン。吉川こずえはそのハルナを見て哀しい顔をして「ごめんなさい、私そんなつもりじゃなかったの。だから泣かないで」とハルナの顔から止めどなく流れる大粒の涙を吉川こずえは舐め、ハルナをなだめる。なぜ二人組のインド人を見た直後に、泣きじゃくる少女とそれをなだめる少女のことを思い出したのだろうか?

 私はこの二つの事柄が私の中で交通事故のように衝突してしまったことに対して、何かしらの解釈を与えたいと思った。だがそれは出来なかった。なぜなら私にとってこの二つの事柄の接合点は、まさに我々の“解釈”についての問題だったからである。どういうことか?
 『リバーズエッジ』という漫画の中の世界は“どこにでもある日常”である。しかし、その日常世界には様々な“影”が存在する。例えば、売春、精神的にどこか病的な異性(観音崎君や田島カンナ)、過食症の少女、ゲイ、ひきこもり。。。大抵の登場人物はどこかに“影”を潜めていて、“影”は日常の進行と同時に進行する。“日常”と“影”は言い換えればコインの“表”と“裏”の関係に似ている。「運がいい人」によってトスされるコインは、80%ぐらいの確率で“表”が出る。だが、そのコイントスは否応がなしに“裏”が出る可能性を秘めている。『リバーズエッジ』の中でハルナは「運がいいコイントサー(コイントスをする者)」なのだ。ハルナは一応物語の主人公的な位置にいて、彼女の心理描写もよく描かれるのだが、ハルナは常に物語上の事件の中心から少し外れている。つまり、ハルナは「日常の中のコイントス」において“裏”を出す機会を意図的に避けられている。そのため、ハルナは「周りの出来事をただただ眺める」という“ある種の特権”的な視線を持っている。また、その“ある種の特権”が彼女が作中で心理描写をする権利を許しているのだ。しかし、ハルナは“ある種の特権”を与えられた代わりに、感情の一部をどこか失っている。ハルナにはどこか感情的に“空虚”である。
 『リバーズエッジ』の中で、ハルナは様々な事件に巻き込まれる。だが、ハルナはその事後のことをあまり引きずらない。なぜだろうか?色々な理由はでっち上げられるだろうが、私は「彼女はモノを見た時に、そこに“解釈”を与えない、もしくは直接的な“解釈”を避ける」と考える。作中に彼女の心理描写が表れるが、それらの言葉はどこか曖昧さが付き纏っている。ハルナとは対照的に、観音崎君や田島カンナやルミちんのモノごとにはっきりと“解釈”を与える。彼らの“解釈”はみな例外なく歪んでいる。何気ない日常の中で不自然に彼らの“まなざし”を描かれた一コマが『リバーズエッジ』の中では頻繁に登場する。



錯綜する“まなざし”、そのひとつひとつが“解釈”を持っている。その“解釈”がある人物の中で肥大化し“疑心暗鬼”という物質に変化した時、事件が起きる。『リバーズエッジ』で巻き起こる事件はおおむね「“まなざし”→“解釈”の肥大化」という経路を辿る。
 あらゆる者が“まなざし”を秘めていて、あらゆるモノが“解釈”を受けることを避けられない。しかし、例外的にすべての解釈を退けるモノもある。本作品の中で登場する「河川敷の死体」だ。山田君がハルナに初めてその死体を見せた時、ハルナはこう思う
「TVや映画で何回も死体をみたことはある でもそれは生きている人間が〈フリ〉をしているだけだ 本物の死体をみるのははじめてだった でも実感がわかない」

多分、我々が河川敷で死体を見たとしたら“気味悪い”とか“怖い”思うはずだ。ここでハルナは“実感がわかない”と言う。確かにハルナのこの言葉には感情的にどこか欠けているふしがある。しかし、それは彼女の感情の欠如だけが問題ではない。なぜなら「河川敷の死体」は『リバーズエッジ』の登場人物たちが放つ“まなざし”による“解釈”を避けた存在、つまり「解釈不可能性のメタファー」として表れているからだ。山田君は学校でいじめられている。「いじめられる」ということはイコール「他者の“まなざし”に晒されている」ということだ。従って山田君が“まなざし”を浴びることのない「河川敷の死体」に共感することは当然の帰結である。ある日、学校のクラスメイトが「河川敷の死体」を見つけて大騒ぎしているのを山田君が目撃した。その時あのいじめられっこの山田君が怒り狂いクラスメイトたちに猛進したのは、「河川敷の死体」は山田君には「最後の聖域」として“解釈”されていたからに違いない。


「あんなやつらにおもしろがられるぐらいなら埋めちゃった方がいいよ」
 その一件のあと、山田君はハルナと吉川こずえに死体を埋めることを提案する。

死体を埋めるための穴を掘っている時、吉川こずえはハルナにこう尋ねる
「ハルナさん この死体を初めてアレみた時どう思った」
「・・・よくわかんない」

「わたしはね “ザマアミロ”って思った」
「“ザマアミロ”って?」
「世の中みんな キレイぶって ステキぶって 楽しぶってるけど ふざけんじゃねぇよって ざけんじゃねぇよって  ざけんじゃねぇよ いいかげんにしろ あたしにも無いけど あんたらにも 逃げ道ないぞ ザマアミロって
             なーんて」


吉川こずえの「河川敷の死体」に対する“解釈”は誰にも共感出来ない(はずだ)。解釈不可能性のモノに付けられた、非常に無垢で、強固な“解釈”。ハルナと吉川こずえはある意味似た者同士なのだ、感情的に空虚であるという点において。吉川こずえはそれを感じとり、ハルナに“ザマアミロ”という自分の“解釈”を語った。「ハルナなら私の“解釈”をわかってくれる」と
 ここでやっと猫の話に戻ることが出来る。つまり吉川こずえにとって、「ビニール袋の中でぐちゃぐちゃになった猫」は“ザマアミロ”という“解釈”の対象であった。吉川こずえはハルナも同じ“解釈”をすると思っていた。だが、ハルナは悲しみのあまり泣きじゃくった。本作品の中でハルナが唯一感情的になったシーンだった。ハルナの瞳から流れる涙を舐めて慰める吉川こずえ、しかしハルナの心理的な傷は舌で舐めて癒すにはあまりにも、絶望的に深すぎる。

 このシーンで描かれる「“解釈”の隔たり」、私が今朝コインランドリーへ向かう道すがらにみた“お弁当”“カレーライス”と書かれた旗が掲げられた台車を引いて歩く空虚な眼をした浅黒い二人組のインド人、「私が彼らを見た時に感じた哀愁、その“解釈”はもしかしたら一般的な他者とはもはや途方もなく隔たっているのか?」と思った時、ふっとフラッシュバック的に脳裏によぎったシーンが、泣きじゃくるハルナと佇む吉川こずえだった、というお話。
 最後に、20世紀のフランス哲学者が言いそうな言葉で〆ようと思う。
「あらゆる事象は、“まなざし“からの“解釈”の下において、平等ではない」

*文献
岡崎京子『リバーズ・エッジ』1994年 宝島社