凸森の思弁的卵かけごはん

アニメ/マンガ/本/音楽/映画/グルメetc...エンタメ関連を中心に、日々の徒然を綴るブログです。

結城友奈は勇者を辞めることができるのだろうか?

 Twitterではよく書いていたが、こうやって記事を書くことは久々だ。
 タイトルにもあるように、話題は『結城友奈は勇者である』の第10話。
 彼女たちが、正確に言えば東郷さんが“真実”を知ってしまった件について、だ。
 このアニメの登場人物の中でいちばん“キレ者” である東郷 美森が『結城友奈は勇者である』(以降ゆゆゆ)の世界システムである「勇者システム」に対していち早く疑問を感じ調べるうちに、彼女は自分たちが仕組まれた存在であること、つまり日常を日常たらしめるための“犠牲”であることを知る。
 それはどのような“犠牲”か?
 見たことがない人もいらっしゃると思うので、簡単に言えば、突如として現れる〈バーテックス〉と呼ばれる敵と戦うために〈勇者〉となって戦うのだが、その戦いの中で〈満開〉と呼ばれる全力状態を発動されると後に身体の機能の一部を失ってしまうという後遺症が残るというもの。それは片方の目の視力を失ったり、味覚を失ったり、声帯が損なわれ声を失ったり、片耳が聴力を失ったり、などの〈部分〉である。7話ぐらいまではその欠損は日常生活が少し不便にさせるだけだったし、「時期に治る」と医者に言われたこともあり、それらは〈些末な問題〉として認識されていた。しかし、8話で「過去に勇者として戦った女の子」に出会い、彼女はもはや植物状態になっていた。その原因は「数多くの〈バーテックス〉との戦いの中で〈満開〉を使用し過ぎ、〈部分〉の欠損が重なった結果、彼女の身体〈全体〉が崩壊した」ということである。

 東郷 美森はそのことにいち早く気付いた。彼女の感の良さは、もちろん彼女の知性的な高さもあるのかもしれない。だが、彼女がいち早く気付いた理由は、10話で明かされるのだが、「彼女は勇者部のみんなに会う前からかつて勇者であった」からだ。彼女はかつて勇者として戦い、〈満開〉を多用した。その結果、彼女は身体の大きな部分を損なった。現に彼女は自分の足で歩くことは出来ず車いす生活を強いられている。そのような〈痛々しい勇者としての過去〉があるにも関わらず、彼女は勇者部に入り再び勇者になった。なぜか?それは彼女の記憶が欠落していたから。彼女は〈かつて勇者だったころ〉の記憶を失い、目が覚めたあとにはかつてと全く違った環境に移動した。そこで結城友奈に出会い、勇者部のみんなに出会い、そしてまた、戦う。
 第5話で大きな戦いの後に片耳の聴力を失ってから、彼女は〈勇者システム〉について暗々裏に調べ始める。勇者部のみんなは「じきに治るって!」と自らの身体の欠損を楽観視していたが、彼女はそれに対して懐疑的だった。「この欠損は本当に一時的なものなのだろうか?」と。そして彼女は〈勇者システム〉を調べ始める。
 その精査の目標のひとつとしてあったのが「どうすればこの勇者システムから逃れられるだろうか?」ということだった。「その目標に辿り着くにはどうすればいいだろう?」と考えたとき、彼女は身の回りに目をやった。そこで彼女が気付いたのは〈精霊〉の存在だった。何も疑問を感じなければ〈精霊〉はただ力を与えてくれる存在だ。だが、彼女が〈精霊〉の存在に疑問を感じ始めたのは「12体のバーテックスを倒せば戦いは終わる」と言われていて、精霊も戦いの消滅と共に消滅したにも関わらず、再び勇者部の部員たちの前に現れたことだった。戦いのために存在すると思い込んでいた精霊が戦いがなくなっても存在する。「また戦いがあるかもしれない」という口実によって再び現れた〈精霊〉だが、このような曖昧な理由では〈精霊〉の存在意義は戦いという一義的なものだけではないのかもしれない、と考えるのは至極当然のことだ。いや、むしろ「本当の目的は別の所にある」とさえ考えてしまう。
 そして、明かされる真実は「勇者は〈死ねない〉」ということ。彼女は「〈勇者システム〉からの逃避」について考え尽くした結果、〈自らの死〉というところにまで追いつめられた。10話で彼女は切腹しようとする。彼女は自らの死に恐怖し震えていたが、それでも確信のようなものがあった。「精霊たちはこんな形で私たちが〈勇者システム〉から逃避することを許さない」という不確かだが、確かな確信が。


 さて、東郷 美森は自分たち勇者が〈死ねない〉ことを知る。自らの内部に逃げることが出来ない、つまり〈自殺〉出来ないことを知ると、その逃避口を〈外部〉に求める(これは「順序が逆ではないか?」と思うのだが、、、その辺は脚本的な効果を狙ってだと思う・・・)。だが〈外部〉に逃げ道はなかった。なぜなら〈世界〉は彼女たちが住む場所以外崩壊してたのだ。外の世界は太陽の表面のような灼熱地獄の様相で、そこはもはやバーテックスの温床だった。東郷 三森はその事実に驚愕する。それはそうだ。「〈自分たちの日常世界〉と〈崩壊した非日常世界〉の境界線の設定場所」が〈自分の足で行ける距離〉にあって、それを隔てるフィルムが本当に薄い。今まで、戦いの場所である〈結界〉に行くにはある程度の〈過程〉を踏んでいるのであるが、それはまやかしであり、それは本当に自分たちの隣にあったという現実。10話で東郷 三森が〈崩壊した世界〉から〈自分たちの日常世界〉に戻ってきた時に広がっていたのは〈夕焼けの海〉だった。この体験は東郷 三森の〈世界への肌触り〉、つまり彼女の〈世界認識〉を決定的に、根底的に変えてしまった。
「東郷さんが“真実”を知ってしまった件について」という始まりで話を続けてきたが、10話の最後で彼女が戦いを仕掛けたのはバーテックスではなく、もはや自分たちを勇者にした神樹様、つまり〈勇者システム〉そのものだった。

 ここまで話して、もちろん上がってくる問題のひとつは『魔法少女まどか☆マギカ』(以下ままま)との対比だろう。
 「ままま=キュウべぇシステム」と「ゆゆゆ=勇者システム」の類似点は「戦いに参加した時点でそのシステムから逃れられない」ということ。だが、ひとつちがうのは「世界が全体が崩壊しているかいないか」である。「ままま」の場合、キュウべぇシステムの中でそこに関係のない人間を取り込む余地がある。だが「ゆゆゆ」は勇者システムはそうではない。勇者システムは、どんなに関係のないモブキャラたちも、否応がなしに関係してしまっている。「ゆゆゆ」のみんなが通う学校の朝礼の時に「神樹様に、礼」という儀礼を絶対にかかさない。これをもし「ままま」に適応するとしたら学校のみんなが朝礼の時に「キュウべぇ様に、礼」というようなものだ(笑)
 どちらかというと「ままま」の方がイレギュラーなのだ。エヴァだって、最終兵器彼女だって、ファフナーだって、舞台にあるのは「崩壊した(しつつある)世界」だ。「ままま」における〈都市〉は「潔癖さの中にあるキュウべぇ」という暗部のイメージだ。僕が挙げられる「ままま」のこの点の類似したイメージはFateにおけるの聖杯戦争だ。
 さて、話を戻そう。
 では、「ゆゆゆ」という物語においての〈救済〉について少し考えよう。
 「ままま」では、今まで徹底的に魔法少女から逃避していたまどかが、友達の死に触れ、「友達の死を悲観する悲劇の女の子」という自己欺瞞から〈超越的な気付き〉によって「過去の魔法少女の死」を思うことにより、キュウべぇシステムの根底を慈悲で掬い上げる(救い上げる)ことによってひとつの〈救済〉を得られる。その時のまどかが漠然と考えていたであろうことは「自らの死が誰かの生に繋がる」という無根拠な信頼だった。そして、まどかは“人間”であることを辞めた。そうすることでしかすべての魔法少女を救うことはできなかった。
 だが「ゆゆゆ」の場合、それがむずかしい。なぜなら、いくら自分が犠牲になった所で、「自分の犠牲によって残ったものが救われるかどうかが非常に疑わしい」からだ。今回の10話で東郷 三森が自分の死を引き換えにみんなを救おうとするが、それが〈救済〉に向かうかは現時点では懐疑的だ。なぜなら、「勇者システム」を壊した所で、壊した後にあわられるのは「勇者システム」によって隠されていた〈崩壊した世界〉だからだ。「そんな世界でも、今の〈勇者システム〉の犠牲者であるよりはましだ!」という希望が今の東郷 三森の行動原則なのだが、それはいささか“やけくそ”感がある。その“やけくそ”はもちろん、ほむほむも抱いていたことなのであるが、その“やけくそ”はまどかを動かす決定的な原動力となり無駄にはならなかった(まどかの願いはまさに、過去未来すべての魔法少女の“やけくそ”を無駄にしたくない、だったのだから)。 
 「ゆゆゆ」での東郷 三森の“やけくそ”から何かを感じ、行動を起こすのは十中八九結城友奈なのだが、彼女はいささか〈勇者システム〉を信じ過ぎているような気がする。きっと彼女は自分が“勇者”であることを辞めることが出来ない。なぜなら彼女の「他人を助ける」という行動は(作品のタイトルがそうであるように)「自分が”勇者”である」というところに支えられている。結城友奈が“勇者”を辞めるということは、彼女から「何かを助ける」という思いを根こそぎ奪い取ることに等しい。。。
 「ゆゆゆ」がワンクール作品としたら、あと2話。結城友奈がどのような答えを出すのか?それは「“勇者”のまま〈勇者システム〉の外部に出て勇者部のみんなを救う」なのか、それとも「“勇者”のまま勇者勇者部のみんなも、〈勇者システム〉も、〈崩壊した世界〉全部救う」なのか、それとも「“勇者”を辞め、高次元の存在になりみなを救う」なのか、それとも僕らが想像だに〈救済〉が訪れるのか、見届けたいと思う。