凸森の思弁的卵かけごはん

アニメ/マンガ/本/音楽/映画/グルメetc...エンタメ関連を中心に、日々の徒然を綴るブログです。

履歴書

本日、快晴なり。近日履歴書ばかり書いていて気が滅入る。「私は“履歴書”というをどうしても好きになれない」そう考えたときまたこうも考えた「“履歴書”が好きな人間などあり得るのだろうか?」履歴書が好きな人間それ則ち自分の経験のほんの一部分が文章化されそれを一日中眺めて恍惚に浸れる人間であろう。なんというナルシシズム!履歴書が吐瀉物だとするならばかような人間は吐瀉物に成りきれなかった腸内の黒点ほどにちっぽけな存在である。では私は腸内の黒点という“存在”にさえなれずに体内で代謝された“無”であるに等しい。吐瀉物以下、腸内の黒点以下、何故なら履歴書に自らを黒点化することが出来ないからだ。カーペットの上に一本の髪の毛が落ちている。私はこれを憎悪する。最近やたら髪の毛が落ちているのが目につく。週3日でコロコロを使って落ちている髪の毛を除去するに徹しているのであるが2日経つとまた落ちている。髪の毛が落ちることは自然の摂理でもあるがストレスも関係していると聞いたことがある。だがここで注意せねば成らないのは私のストレスの原因が「床に落ちている髪の毛を見る」であるということだ。髪の毛が落ちる→床に落ちている髪の毛を見る→ストレスを感じる→掃除する→ストレスを感じる→髪の毛が落ちる→床に落ちた髪の毛を見る→ストレスを感じる….まさに自己循環型の負のスパイラル。デフレと同じ構造。本日新聞読みぬ。「政府 日銀掌握せり」物価目標を2%に引き上げの政府の要望に日銀が同意した。髪の毛で例えると落ちている髪の毛を拾ってもう一回糊で頭皮に張りつけるようなだと考えて良いかもしれない。いや嘘だ。事態はそんな単純な話ではない。私の「物価上昇=髪の毛頭皮再帰論」に異を唱えたいならば勉強されたし。ところで話は変わるが「髪の毛が落ちる」ということをもう少しポジティヴに考えてみようではないか?高い所からモノが落ちるときそこには必然的にエネルギーが発生している。このエネルギーは“位置エネルギー”と呼ばれるものだ。確か小3で習ったはずだ。「高い所にある」ということはそれ自体エネルギーを有している状態でありそれが落ちるということはエネルギーが消費されていき着床と同時に0になる。そう考えて街を歩くと面白い。なぜなら街を歩いているすべての人々の髪の毛が位置エネルギーを秘めていて今か今かとそのエネルギーを放出させんとソワソワしている。しかし髪の毛には意志がないのでエネルギーの放出は今日かもしれないし明日かもしれないし3年後かもしれない。ようは運否天賦だ。しばしば髪の毛の無意志のエネルギー放出欲望と髪の毛の所持者の主体の意識は相反する。望まれずに落ちていく髪の毛。髪の毛と仮眠家の所持者は永遠にコンコルダート(教皇和解)を結ばない。お、ここまで書いたら元気になってきた。髪の毛は今日も無意志に元気に落ちる。「センター受験失敗」良き響き。大丈夫だ受験生諸君。君がいくらセンター受験に失敗しようが、それは君の髪の毛のキューティクルの痛み具合とは無関係。どうせ大学に入ってビリジアンに髪の毛を染めるんだろう?「よし、履歴書を書こう!」と思ったら履歴書の上に一筋の我が髪の毛。私は灰皿に髪の毛を放りタバコに火をつけてタバコの先端で燃やすしかなかった。