凸森の思弁的卵かけごはん

アニメ/マンガ/本/音楽/映画/グルメetc...エンタメ関連を中心に、日々の徒然を綴るブログです。

「すいません、あなた、、、

びっくりするほど人差し指と中指の付け根を描くの、本当に上手いですね。もしかしたら、この世で一番上手いかもしれません」
 これはお世辞でもなんでもなかった。本当に、上手いのだ。
「えぇ、ありがと」 
 "そうよ。今更気付いたの?"とでも言わんばかりのドヤ顔と共に、笹岡さんはそう言った。
 笹岡さんは人差し指と中指を描く世界的な権威であるということ、そのことに気付いたのは今日の会社での会議のときだった。つまらない会議だった。まぁいつものことなのだが。入社して3年目、もうこの仕事において金を稼ぐこと以外にやりがいをなくしていた。つまらない会議、つまらない営業、つまらない接待、つまらない会社での飲み、つまらない愚痴、つまらない、つまらない、つまらない・・・
"この会議、俺が寝ていたとしても、何の問題もないのではないか?"と考えて、"次の会議のときはアイマスクをしていこうか"と思っていた矢先だった。隣の笹岡さんが書類の端っこに何かを描いているのを見てしまった。人差し指と中指の付け根のスケッチ。目が覚める思いがした。それは"スケッチ"と呼べるレベルではなかった。もはや"作品"だった。この書類の端っこをハサミで切り取って小さな額縁に入れれば売れるのではないか?完成度、精巧さ、質感、すべてにおいて完璧な人差し指と中指の付け根だった。それが会社の棚においてある共用ボールペンで書かれたものであるとは、にわかに信じられなかった。
「ちょっと立ち話もなんですし、もうすぐ昼休みですし、どうです?一緒に昼メシ行きませんか?」
「えぇ、いいわよ。」

 俺と笹岡さんは会社の近くのイタリアンのお店に入った。俺はいつもどおりナポリタンの大盛りを、笹岡さんはほうれん草とキノコのクリームパスタを注文した。
「ふぅーん、きみ、よくここにくるんだ」
「えぇ、ランチはパスタ大盛り無料ですし。それにここの大盛りは、ちょっと他とはレベルが違うんで、助かってます」
「この"ガツ盛り"ってやつ?」
「えぇ、この"ガツ盛り"ってやつです」
「若いのね」
 笹岡さんはタバコを吸った。ヴァージニアスリムだった。俺は笹岡さんが会社の喫煙所でタバコを吸っている姿を見たことがなかったから、笹岡さんは禁煙者だと思い吸うのをためらっていたが、俺もタバコを取り出して吸った。赤マルだった。
「笹岡さん、タバコ吸ってたんですね」
 俺は笹岡さんがタバコを持つ人差し指と中指の付け根を見ながら言った。
「あんまり吸わないようにしてるんだけど、ランチタイムにはちょっとね」
 笹岡さんのタバコの持ち方はとても優雅に思えた。あれだけの人差し指と中指の付け根を描く人間だ。やはり人差し指と中指の付け根付近の動作は、普通の人よりも洗練されているのだろう。
 お互いタバコの火を消そうと思った矢先に、パスタが運ばれてきた。
「"ガツ盛り"って、そんなに量あるのね・・・」
「えぇ、"ガツ盛り"ですから」
 俺と笹岡さんは黙ってパスタを口に運んだ。終始、俺の視線は笹岡さんの人差し指と中指の付け根に行っていた。

「笹岡さん、絵の学校にでも行ってたんですか?」
「いいえ、わたしは高校は普通科の学校で、大学も私立の教育学部よ」
「じゃあ、、、なんであんなに絵が上手いんですか?」
「うーん、、、"絵が上手い"という言い方には、少し語弊があるわね」
「え?どこがですか?だって、あんなに・・・」
「わたしは"絵が上手い"んじゃなくて、"人差し指と中指の付け根が描くのが上手い"のよ」
「・・・じゃあ、人の顔とかは?」
「描けないわ」
「じゃあ、人の手とかは?」
「描けないわ」
「小指と薬指の付け根は?」
「描けないわ」
「人差し指と中指の付け根は?」
「描けるわ。それも、世界一上手にね」
「・・・なるほど」
「もしわたしの描く人差し指と中指の付け根に付いて興味があるのなら、帰り道に本屋によって野球の教本でも読んでみなさい」
「どうしてですか?」
「なぜなら、この世に溢れている野球教本のフォークボールの握り方の人差し指と中指の付け根は、すべてわたしが描いているからよ」

 その帰り道、俺は本屋によって野球教本の"変化球の握り方"のページをめくった。あぁ、その通りだった。俺は高校時代、野球部に所属していたので、いくつかの野球教本はそれまで何度か読んでいた。しかし、その時は気付かなかった。だが、今になってようやく気付いた。これは紛れもなく、笹岡さんが描いた、人差し指と中指の付け根だった。


「なにか疑問でもある?」
 俺は笹岡さんと仕事帰りにバーで酒を飲んでいた。笹岡さんは人差し指と親指を器用に使ってドライマティーニを飲んでいた。
「いや、、、あれだけ上手に人差し指と中指を描けるのだとしたら、、、その技術を活かしてもっと手とか、身体とか、全体を描けるようになれば、それだけでメシ食っていけるような気がしたので、、、」
「・・・そうね。わたしもそのことについて考えたわ。でも、ダメだった」
「ダメだった、とは?」
「人差し指と中指の付け根に関して言えば、わたしは本当に上手く描ける。絶対的な自信がある。でも、それから先を描こうとすると、ダメなの。なんだか、線がぐにゃぐにゃのゴムのように歪んでしまうの」
 俺はどこかに違和感を感じた。
「なんか、、、それってもったいなくないすか?」
「どうして?」
「なんていうか、、、人差し指と中指の付け根を描くだけだったら、それは"フォークの握り方"にしか使えないかもしれませんが、その先を、例えば人差し指と親指の付け根を描けるのであれば"カーブの握り方"を、人差し指と中指の付け根に薬指を加えれば"パームの握り方"を、手全体を描ければ"ナックルの握り方"を、更にもっと身体全体を描ければ、それは野球教本に留まらず、あらゆる場所で笹岡さんの絵が人々に見られたかもしれないのに、今、こうして絵とは全く関係ない職場で、誰も笹岡さんが"世界一の人差し指と中指の付け根を描ける希有な人間"であることを知られずに生きているって、なんか、もったいないし、、、くやしささえ感じます・・・」
「えぇ、そうかもね」
 笹岡さんはチェリーでドライマティーニを掻き回しながら言った。
「わたしにもわかっていたわ。努力はしたの。部分的なものだけではなく、もっと全体的な者を描ける人間に成るような努力を。でも、ダメだったわ。どうしても、歪んでしまう。もっとしがみついて絵を描く努力をしていれば、違う結果があったのかもしれない。でも、"わたしには全体をも人差し指と中指の付け根を描けるレベルになるかもしれない"という可能性にしがみついていたとしても、それは"可能性"に過ぎなかったの。5年ぐらい続けて、ようやく気付いた。だから、わたしは諦めたのよ。だってそれを続けていたら、わたし、死ぬまで一生その実現し得ない可能性を糧にしてしか生きていけなさそうで。そういうのって、わかる?」
「・・・ちょっとよくわからないです」
 嘘だった。俺は笹岡さんの話を、痛いほどよくわかった。
 俺は小説家を目指していた時期があった。俺はよく部分的なところを細かく描写することに長けていた。例えば、卵かけごはんの話とか、天井のシミの話とか、断片的な話を書いていた。いや、それは話とは呼べないシロモノだった。俺はそれは訓練だと思っていた。いつか、人々の心をつかむ全体的なストーリーを書くための、断片のお話としての。しかし、ある時になって、俺は書くことをやめた。俺は断片を書くことによって、いつか全体的なストーリーを書くつもりが、いつのまにか、脈絡のない断片しか書けない人間になっていたことに、気付いてしまった。それに気付いた時、俺は書くことを放棄した。
 笹岡さんが人差し指と中指の間しか描けないということ、笹岡さんが全体を描くことを放棄したということ、それは俺が忘れたフリをしたもの、そのものだった。
・・・いや、ちがうかな