うそばっかり
朝、金沢駅東口前の噴水、水時計は5時35分を表示していた。陽子がやってきた。白いノースリーブワンピースに麦わら帽を被っていた。
「待った?」
陽子は麦わら帽を右手で押さえて顔を上げた。俺はすぐにこれは神への罪悪感による俺へのご褒美であることに気付いた。なぜなら陽子の脇がほとんどアニメ的な美しさを有していたのだから。曲線、くぼみ、影、すべてが完璧だった。俺はすかさずiPhoneを取り出し右下部分を上フリックして写真に残そうとした。だが俺の撮影技術では瞳に映る一瞬の美しさを画像という一枚のデータにすることは不可能だった。俺の目にSDカードが付いていればなぁ!!!
(If I were able to put in SD card in my eyes, I would take a Yo-ko's beautiful armpit picture !)
「全然、むしろほぼ同刻に来たと言っていいくらいや」
つまらない嘘だった。いつだってそうだ。俺は面白い嘘が付けない。
「そう」
陽子は俯き加減で言った。少し不安を感じているのだろうか?
「新幹線なんじやっけ?」
俺は何気ない問いかけで陽子の抱えている不安を紛らわせようとした。
「6:10の始発よ」
「かがやき?」
「えぇ、かがやき」
「じゃあまだタバコ2本分の時間は残っている」
「いいえ、1本分よ。サンドイッチとコーヒーを買うのに一本分使うわ」
「コーヒー買ってくる。あたたかいの?つめたいの?」
「あたたかいの。さすがにノースリーブは少し寒かったわ」
俺は近くの自販機に向かいエメマンを2本買った。あたたかいのと、つめたいの。噴水に座って待っていた陽子はエメラルドグリーンのカーディガンを羽織っていた。
「奇遇やな」
「なにが?」
「エメラルド」
「なに言ってるの?」
陽子は一笑もしなかった。
俺たちは無言でコーヒーを飲み、タバコを吸った。陽子はタバコもライターも持っていなかったので俺のをあげた。
「いや、一本でいいのよ。ライターも、いらない」
「いや、それ、やるよ」
こんな時に限って、俺はプレゼントを忘れてきた。せっかく、大和でウォーターマンのボールペンをプレゼント用に買っておいたのに。。。玄関に置いてきてしまった。
俺たちの別れの時は刻々と近づいている。タバコの半分が煙と灰に変わる。火をつけたタバコが不可逆であるように、時間も不可逆だった。俺はフィルターに火が達するギリギリまでタバコを吸うことに努めた。タバコの煙が灰色の空を背景に不格好なパースで長い時間揺らめいていた。俺はそれをずっと眺めていた。
何か、最後に話すことはないのか?
これで最後なんだぞ!
女性の肉体である、陽子と話す、最後の時なんだ。
タバコの煙を目で追っている場合じゃあないことぐらいわかるだろ?
「5時45分、そろそろ行かないと」
「お、おぅ。もうそんな時間か」
陽子立ちあがった。駅に向かって歩き始める。トランクの引く。金沢駅東口のアーチ構造がトランクのタイヤのコロコロとした音を響かせる。朝練に向かう女子高生2人にすれ違う。彼女たちの肌はよく日に焼けていて健康的に見えた。ソフトボールをしているんだろう。エナメルバッグがやけにテカって見えた。
金沢駅の北陸新幹線乗り場は東口から近いところにある。始発の北陸新幹線に乗るのはほとんど東京出張へ向かうサラリーマンだった。彼らは朝6時前でもせわしなさそうに、早足で改札を通り抜ける。
「じゃあ、これでお別れね。いろいろとありがとう。色々楽しかったわ」
陽子はあっさりとそう言うと財布から切符を取り出し改札に向かった。エスカレーターを昇っていく。陽子が上昇するということ、それは陽子が“男性”への階段を駆け上っていくことと同義だった。"男性"という希望、レイプのない世界、セクハラのない世界、
これでおしまい・・・?
あぁその通り。
ジ・エンドさ。
歌にもあるだろう?
"もう二度とあなたの瞳を見つめることはないだろう"
それでも残る何かがあるだろう?
あぁ、あるかもな。
だが・・・
だが?
思い出を自分の中で神聖化しているだけでは、
それは単なる自己満足に終わる。
大切なのは、何を言っ"た"か。
俺は叫んだ。
「あ、あ、あ、、、、あのさぁ!!!」
陽子は振り返った。
「俺!お前が男になったとしても、お前のこと、きっと好きになる!!!」
陽子は笑った。今日初めて、笑ったのだ。
そして、こう言った。
「うそばっかり」
陽子は俺の視界のフレームからフェードアウトして行った。
金沢駅構内は静寂に包まれていた。言いたいことを言った、それだけのことだ。それだけのことが、こんなにも目に映るすべてを明るくしてくれるものだとは思いもよらなかった。あぁ、駅構内の灯りが眩しい!俺は二度と陽子に会うことはないだろう。あぁ、駅構内の灯りが眩しい!俺は金沢駅西口へと歩いて行った。西口には暗さがある。この暗さが、俺にはふさわしい。眩しさに包まれることなど、俺にはふさわしくない。これでいいんだ。これで、陽子との関係性はおしまい。
パーン
俺の背後で花火の音がした。こんな季節に?こんな明るいのに?こんなところで?俺は冷たいものが身体から滴り落ちるのを感じた。小便をもらしたみたいに。急いで股間に手をやった。いや大丈夫、股間からではない。冷たいものはくるぶしの曲線をなぞって靴下に滲んだ。紅い、紅い、血。コンクリートにひとつの蟻の巣が出来ていた。さっきまでなかったのに。早いな!蟻って、ものの数分で自らの住処を地中に作ることができるのか?すごいな!しかもコンクリートに!?俺はゆっくりと倒れた。身体が冷たくなるのを感じた。寒い、寒い、寒い、コートが欲しい、血の気が引いていく、あぁ、俺は打たれたんだな、多分、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、誰に?
俺の背後には季節外れのトレンチコートを着た男が立っていた。山高帽とサングラスで顔はよく見えない。笑っていた。とても良い笑顔で。その笑顔は河川敷を思い出させた。いつか、夕焼けの中、フリスビーを追いかけた、河川敷。フリスビー?声は失われていた。声を出そうという意志はあるのだが、上手く空気を掴むことが出来ない。男は駅構内へと闊歩していく。俺は男を追おうと立ちあがろうとするが、脚が言うことを聞かない。代わりに手を伸ばす。この状態から空気を掴みコツを得ようとしていた。一言、一言でいいんだ、俺はこういいたかった。
「狂津・・・くん?」
視界はブラックアウトした。
朝の風は生暖かく、
微かに"かがやき"の出発音が聞こえた。