凸森の思弁的卵かけごはん

アニメ/マンガ/本/音楽/映画/グルメetc...エンタメ関連を中心に、日々の徒然を綴るブログです。

『君の名は。』、≪新海誠≫、【携帯電話】を巡る試論

 先週の日曜日新宿のバルト9で友人と『君の名は。』を見ました。友人は初見で、僕は2回目でした。僕は1回目の観賞ですでに本作品を絶賛しました。この作品からは新海誠が処女作の『ほしのこえ』からずっと新海誠が追い求めていた〈テーマ〉を感じましたし、今回の『君の名は。』はその〈テーマ〉の終着点に足りうる「説得力」を持っていたと思います。そして、新海作品初見の人々にもその「説得力」が伝わったからこそ、ここまでの多くの人に観られ、そして莫大な興行収入に達したのだと思います(このブログを書いた2016/12/13時点で200億円を超えている)。

 さて、では新海誠がずっと追い求めていた〈テーマ〉とは何か?

 いろいろ考えられると思います。
 〈すれ違う男女〉もあると思うし、
 〈携帯電話〉もあると思うし、
 〈風景〉もあると思うし、
 論じようと思えばネタは尽きないような気がします。なぜなら新海誠というアニメーション監督はそれくらい強度な作家性を有しているからです。もうゼロ世代系論客がもう『君の名は。』について何かうまいこと言った論文を何本も書いていると思われます。つまり・・・・・・「僕が『君の名は。』について何か書く意味なんてないなぁ〜」と高をくくってました(笑)

 しかし、今回の2回目の観賞の後に、僕の頭の中に何かが引っかかっていた。
 仕事中、車の中で(僕はアニメの制作進行なのでよく車を運転する習慣がある)、『君の名は。』のOP「夢灯籠」をiPhoneで聴いていた。iPhoneの音楽画面に映し出されるRADWINPSのアルバムジャケットとタイトル名。この映し出されているものはなんだんだろう?そんなことを考えていました。絵と文字。絵と文字。絵と文字。絵と文字。絵と文字。。。あっ。そうだ。
 そう思ったとき、僕は車をコンビニの駐車場に停め、自分の頭の中に引っかかっていたなにかが濁流の思考となって流れ込んてきたものを狂ったようにツイートしました。僕が『君の名は。』について、新海誠について、そして"現代"について語らねばならなかったこと、それは【携帯電話】だ、ということに気づいたのです。

どういうことでしょうか?

それは【携帯電話の嘘と本当】についてです。

これから以下は作品の内部にも触れていくため、ネタバレは避けられないところではあるのですが、できれば観ていない人たちにも僕の文章を読んでもらえたらなぁ〜、と思っているので、極力内容に触れる記述は濁して書いていきたいと思います。以下の文章は僕の昨日のツイートを加筆訂正したものです。では何卒、宜しくお願い致しますm(_ _)m



『君の名は。』の作中、瀧と三葉が入れ替わりに気付いたあと、彼彼女たちのコミュニケーションは「携帯電話のメモに字を書き残す」という方法でした(三葉の場合はブログに書いていた)。ここで問題になるのは、この行為には「大きな嘘」があるわけです。

どういうことでしょうか?

「大きな嘘」(見た人ならすぐわかると思うのですが、見ていない人もいるので濁していうと)それは〈二人が物語世界内でお互いがケータイ残した文字を見ることで"同時間"を共有している〉という思い込みです。詳しいことは言いませんが、要は相手が打った文字を見たことで、同じ時間のいるとすっかり思い込んでしまうのです。しかし「大きな嘘」は残酷な形で露呈される。瀧が崩壊した宮水を見た時、「そんなわけないだろ・・・・・・だって」携帯を見ると、携帯の文字は文字化けを起こし、三葉のブログエントリーは消えていきます・・・・・・三葉という存在がまるで嘘だったかのように。
 この「大きな嘘」を気づかせるきっかけは何だったのでしょう?それも携帯電話だったのです。つまりは「電話」だったのです。

どういうことでしょうか? 

『君の名は。』で象徴的な2カットがあります。それは瀧と三葉がそれぞれ歩道橋の上でお互いに電話を掛けるカットです。電話をかけても相手に繋がらない。この時、携帯電話の文字による「大きな嘘」は、携帯電話の電話("電波的な真実"とでも呼びましょうか?)が露呈の契機となり、物語が進むに比例して携帯の文字による「大きな嘘」を埋め合わせていくように二人は行動するわけです。
 
 ここまで言って、僕は何が言いたいのか?
 
 それは携帯電話の嘘、端的に言うと「携帯メールの文字の虚偽性」についてです。"メール"としているのは便宜上で、要は携帯電話のエクリチュール(書かれたもの)全般の話です。

 新海誠の処女作『ほしのこえ』という作品に「携帯メールの文字の虚偽性」がはっきりと表れています。この作品は、中学3年生の長峰ミカコと寺尾ノボルが互いにほのかな恋心を抱き、同じ高校への進学を望んでいたが、実はミカコは国連宇宙軍のタルシアン調査隊――リシテア艦隊に選抜されてしまう。そしてミカコはひとり宇宙に打ち上げられ、遠くの惑星へと行ってしまいます。何億光年ともいう距離を移動しているなかで、その状況をミカコとノボルは携帯メールでお互いに近況方向をし合います。ミカコは「今〜星にいます。心配ないよ、元気にやってます。そっちは?」みたいなことを男の子にメールする。男の子もそれに「僕も元気だよ」みたいなメールをする。
 この一連のやり取りの中に、携帯メールによる「大きな嘘」が隠蔽されています。それは彼彼女達の不安です。遠い宇宙にひとり放り出されて不安やさみしさで眠れなかったとしても、好意を持っている女の子が遠くに行ってしまったさみしさで眠れなかったとしても、「元気だよ」という携帯メールの文字は彼彼女達の不安を一切合切捨象してしまいます。
 また、新海誠の『秒速5センチメートル』の第1章(この作品は第1〜3章に分かれています)、大雪の中、少年が長年会っていなかった女の子に会いに行きます。しかし、電車は大雪のためストップしてしまう。彼は彼女に電話する。しかし彼女は電話に出ない(確かそのようなシークエンスがあったはず・・・うろ覚えで申し訳ない)。これは「電波的な真実」の一例。

 ここまで、僕は新海誠の作品を取り上げて「携帯メールの文字の虚偽性」と「電話の電波的真実」についてつらつら書いてきましたが、問題なのは《今、現実世界を生きる僕らのコミュニケーションの殆どは(少なくとも50〜60%くらい)"携帯メール的な文字"で成り立っている、という事実です(統計学的な実質調査はここでは必要にないくらい、皆様も肌でそう感じておられるでしょう)。
 例えば、夫が妻に「仕事で遅くなる。愛している」という文字をLINEで送る、そしてこれから浮気相手とラブホテルに入っていく。浪人で都会の予備校に通う子どもが「ちゃんと勉強してる」とパチンコ台の前でLINEを送る。文字的な意味と、その文字を送る主体の行動が大きく乖離してしまっている。

 一昔前の文字によるコミュニケーションは「手紙」でした。「拝啓〜様、私は元気にしています。〜」と異郷での生活や状況の不安を抱えながら文字を書く・・・・・・手紙的な虚偽。しかしその嘘は"郵便"という主体が文字を送ってから客体に届くまでの時間の遅れがあるため、この嘘は自己説得可能ですしまた説明可能です。

 しかし「携帯メール的な虚偽」はどう説明をつければいいでしょうか?送信と同時に相手に届く。自分が今何をして、本当は何を考えているのかとは全く関係なく・・・・・・まぁ開き直るしかないですよね、「そういうものだ」と。僕だって以前こうして真面目な論調風のツイート書きながら実は部屋でエロ動画鑑賞してマスかいてることだってありましたし(笑)

 話を総括すると、新海誠が捉えた"現代のテーマ"のひとつは、この「携帯メールの文字の虚偽性」というのは外せないと思うのです。それは2001年の『ほしのこえ』からずっと追い続けたテーマだと思う。
 したがって、今回『君の名は。』の中で滝と三葉が歩道橋の上という同じBG(背景)で、電話をかけるという兼用2カット。あの2カットは、新海誠が今回自分のテーマのひとつを解決に導くためのひとつの答えだったと思うのです。
 携帯メール的虚偽、「電話で声に出して相手に何かを伝えるのってめんどくさいし、メール(LINE)でいいや」現代コミュニケーションの惰性、電話をかけている主体同士が徹頭徹尾"受話器越し"で繋がっている。新海誠が提示したひとつのアンサーとして、僕には感じられた。




以上です。ありがとうございました。文字というもの、それは以前"手紙"しかり"出版"しかり、要は「遅延」を有していたが、現代の技術がその「遅延」を皆無にしてしまった。それは現代の素晴らしさであり、かつ現代の恐ろしさである。携帯電話でメールが普及した1990年代末から2000年代初頭、その時にすでに新海誠はこの変化について何らかの思うことがあって、『ほしのこえ』から『君の名は。』まで連綿して維持し続けてきたこの先見性と持続力に、僕は新海誠という現代作家に対して感嘆せずにはいられない。





しかし・・・・・・もし、電話(skypeでもいい)が「主体が受話器を持っていなくても、テクノロジーが主体者の伝えたい言葉を識別し遠隔で音声を放つことができる」ようになった時、現代は次なるフェイズに突入するでしょう。