凸森の思弁的卵かけごはん

アニメ/マンガ/本/音楽/映画/グルメetc...エンタメ関連を中心に、日々の徒然を綴るブログです。

どうして詩なんか書いているんだろう?

 第六回三文賞(ネット詩公募)の特別賞に選ばれました。
「信号機」という詩を書きました。

3mon.oops.jp

仕事柄、僕は深夜に杉並区や練馬区辺りを車で走らせることが多くて、深夜の2〜3時頃、横断歩道者など誰もいない深夜の練馬区の住宅街の赤信号の前で佇んでいる(車の中なので“座っている”といった方が正しいのだが)。
「どうせこんな人気のない交差点の赤信号なんて無視して大丈夫だろ」
と思いつつ、
「しかし、もし、ここで誰かが飛び出してきたら?酒に酔っぱらったサラリーマンや大学生が飛び出してきたら?夜間徘徊中の痴呆症おばあちゃんが飛び出してきたら?」
そんな時に生じる怒りと不安の葛藤を、なんとなく“詩”という形式で言葉にしたものを、今回送らせていただきました。

〈どうして詩なんか書いているんだろう?〉

 三文賞の受賞者の経歴を見てみると、商業誌の詩の公募で佳作を受賞していたり、短歌の会に所属していていたり、実際に商業で小説を出版していたりする。Twitterのアカウントを見ていると、結構“詩”について日常的に考えていたりする。“詩”そのものではないとしても、書いてあることはなんとなく“詩”に接続しているような文章を書いている。
〈詩トハナニカ?〉
について日常的に、職業的に、生活的に、追求している人たちだ。
プロ、もしくはセミプロの人たちだ。詩についての、言葉についての。

〈どうして詩なんか書いているんだろう?〉

 三文賞受賞者の経歴やリンクやTwitterをある程度サーフィンしてから、三文賞の自分の経歴のところから自分のTwitter画面に戻ると、恥ずかしさで一杯になる。
 こいつはバカか?
 脳足りんか?
 アニメのことばかり呟いて、
全く"詩"について、"言葉"について、考えていない。

〈どうして詩なんか書いているのだろう?〉

 このようなネット詩の公募に応募する人々は、多分ユリイカとか現代詩手帳とかの公募に過去に応募したことがあるようだ。今も定期的にしているのだろう。どうしてだろう?それは多分、自分を"一人の詩人"であることを認めてもらうためだと思う。また"一人の詩人"として高みを目指すために、詩作するだろう。もちろん、それだけじゃなくて、もっと個人的な理由だって存在する。それだけが全てじゃない。カルピスの作り方には割合があるように、理由にだって割合はある。僕が挙げた上記2つの理由は、多かれ少なかれ、間違いなくその“割合”の中に入っているはずだ。1%でも入っているのであれば、それは「入っていない」とは言えない。だが僕には“1%”も入っていないようだ。

〈どうして詩なんか書いているのだろう?〉

 正直な話、僕は詩の公募に応募したことがない。三文賞だって、史夫さんに勧められてなんとなく書いただけだった。
詰まる所、僕は"詩"を志向していないのかもしれない。「じゃあ何を志向して詩を書いているんだ!?」って話になるのだけれど、よくわからない。本当によくわからない。

〈どうして詩なんか書いているのだろう?〉

 小金稼ぎ、昼飯2日分、うまくいけば6日分、の金が入る。それは僕にとって至極真っ当な理由の一つだ。詩を書くということ、それは金のためだ。だがそれは理由の割合に過ぎない。全てを包括するような理由足り得ない。多くの現代に生きる日本人は、3000円(もしくは1000円)を稼ぐために何かの道を極めようとはしない(はず)だ。

〈どうして詩なんか書いているのだろう?〉

 最近、アニメの制作に携わっているのだが、その中でひとつ気付いたことがある。みなさんはアニメを見たことがあるだろうか?まぁ一度も見たことないという人はほぼいないと思う。日本のテレビで放映されるアニメというのは大体1話24分ほどの映像で、その時間の中で絵で書かれたキャラクターたちが動き、演技するのだ。僕は働く前「アニメってどう作られているのだろう?」についてよくわかっていなかった。なんとなく、パラパラ漫画の要領で作るのだな、ということだけはわかっていた。しかし実際に見てみると、そんな単純なものではなかった。

〈どうして詩なんか書いているのだろ?〉

 アニメを作る際、まず絵コンテが作られる。アニメとは言わば「カットの集積体」のようなもので、24分間に300~400ぐらいカットが切り替わる。実写だったら、カメラを長回しさえすればカットを切らずに回せるが、アニメの場合そう簡単には行かない。なぜなら、それは絵なのだから。もしひとつの場面を2~3分ノーカットで回そうとすれば、それだけの枚数の絵を書かないといけない。それには甚大な労働力が必要となる。したがって、少しでもアニメーターの労力を削って、かつキャラの芝居を効果的に表現するためには、カットを多く切っていかないと成立しないのだ。

〈どうして詩なんか書いているのだろ?〉

 さて、絵コンテである程度全カットの大体の流れがわかったら、アニメーターがレイアウトを書く。レイアウトとは各カットの根幹を成す一枚の絵のことだ。こんな構図で、こんな表情で、こんな芝居で、こんな光で、、、と細かいところまで決めて、それを試行錯誤していくことで初めてひとつのカットが出来上がる。カットの動きを点で繋げる何枚かの絵を書いて、そしてそれを動画として繋げる絵を書いて、、、アニメ制作とは途方もない反復と修正を要する、大変な作業なのだ。
1話のアニメが完成された電車の路線であるとすれば、レイアウトは路線が完成する前に完成した駅だ。その駅から次の駅に、いかに路線を繋げるか?点でしかなかったものを、線として繋げて、繋げて、繋げて、それらは初めて山手線みたいな「〜線」という名称を与えられる。つまり作品となる。

〈どうして詩なんか書いているのだろ?〉

 丁度これに似ていると思った。僕が詩を書く理由。それはレイアウトなんだ。
 “僕” という人間の人生が、長い、長い、一直線ようなものだとする。きっとその一直線は、電車を走らせるにはうってつけにみえる。中央線のように。しかし、いつまでたっても電車は走らない。それどころか、いつまでたっても未着工だ。それはそうだ。構想はするものの、誰もそれを“路線”にしようとする作業員がいないのだ。誰もいない、構想だけ建てられた未着工の一直線。僕はため息をする。そんな一直線に、とりあえず駅だけ作ってみる。自分一人で駅を作ることは、苦労はするが少し楽しい気もする。ひとつ作って、休む。ひとつ作ると、今度はもうひとつ作ってみる。うん、どれも、不格好だけど、駅らしい感じになった。すると今度は、繋げたくなってみる。駅と駅を結びつける、路線を作りたくなってみる。またひとつ駅が出来る、それを繋げる、またひとつ駅が出来る、それを繋げる。この駅というものは、言わば“僕”という人間の具体性のことだ。つまり、表現のことだ。僕という人間が今、この状況、この環境、この人間関係、この季節、あらゆる“今”が渦巻く混沌を、なんとか整えて、ひとつのレイアウトとして、ひとつの駅として、ひとつの詩が、出来上がる。

〈どうして詩なんか書いているのだろ?〉

 うん、たぶんこういうことなんだと思う。この文章だって、詩ではないけど、僕のレイアウトだ。現時点での僕の考えを文章という"駅”にして、具体化してる。その“駅”は別に文章じゃなくても構わない。音楽、絵画、映画、アニメ、スポーツ、仕事、家族、、、全ての人々が無意識のうちに自分のレイアウトを作っている。自分の“駅”を作っている。ただ、そのレイアウトが誰が見ても“駅”だと呼べるものかどうかの具体性の強度は人それぞれである、というだけの話だ。それに具体性の強度を高めようとしない人間が怠慢だとは、誰にも言えない。〈強固な“駅”を作るかどうか?〉、それは徹頭徹尾、自分の問題なのだから。
ある日、各駅を結ぶ路線が完成する、その開通式、第一号の特急電車が自分の想像を遥かに超えたスピードで自分が今まで造り上げてきた各駅を通り過ぎる。その時、自分という路線を走る始発にして終電の特急列車の車窓から見える風景のことを、僕らは“走馬灯のように”と呼ぶのだろう。