凸森の思弁的卵かけごはん

アニメ/マンガ/本/音楽/映画/グルメetc...エンタメ関連を中心に、日々の徒然を綴るブログです。

偉大で、孤独な直接性

 3月には何かが起こることが相場なのかもしれない。去年の「3.11」が記憶に新しい。2011年3月16日、思想家の吉本隆明がお亡くなりになられた。僕はあまり吉本さんの著作を読んでいない。僕の友達が「吉本隆明は僕の父」と豪語している程「吉本隆明っ子」で彼に2〜3冊借りて読んだことあるだけです。それでも僕は寂しく思う。何故なら、吉本さんの思想は「思想家」という重々しい言葉とは裏腹にとても僕らに対して優しく、分かりやすく、そして同じ目線であったから。
 彼の著作に『ひきこもれ−自分の時間をもつということ』があります。僕はこの本をまだ読んでないです。しかしtwitterの吉本隆明botでこの本の中の言葉を見て衝撃を受けました。
 「ひきこもって考える、そこにしか価値は生まれない」(だったかな?)
すごいです、ひきこもるってばかりの僕にとっては最高の言葉です(笑)普通世間では「お前ひきこもって、一体何やってんだ!?」と親や先生の叱咤を受けるのが当たり前です。しかし、吉本さんはそんな固定観念に対して「ホントはそれってすごくいい事なんだよ」と僕らに優しく教えてくれる。そういう言葉って、すっごく苦労してきた人からしか生まれないと思うんです。人は「見た目で間違ってるもの」に対して叱咤するのは簡単に出来ます。何故なら、その叱咤は「社会」が保障してくれるから。社会が「ひきこもりなんて間違ってる!」と言っている、それだけでそれを叱咤する事に説得力が生まれる、正義になる。ひきこもっている側も「あっ、俺って間違ってるんだ。何やってるんだ俺・・・」と思いってしまう。「俺なんて価値がないんじゃないか・・・」
 そんな負の論理を、吉本さんの言葉はいとも簡単に論破してる。吉本さんは物事をそういう視点から見る事が出来たんだと思います、マジョリティーから遠く離れた所から社会を見渡す視点から。にもかかわらず、吉本さんの言葉ではとても僕らに近い。そんな相反する2つの特徴を以って論を進めます。そのことが吉本さんに親近感を感じられる一因だと僕は思います。
 そんな事が出来るのは本当に稀有な存在です。しかし、同時にその場所はとても、とても、孤独だったと思います。そんな誰にもわからないような孤独で、吉本さんはずっと戦ってきたのだと思います。常人には想像も出来ません。そんな想像もつかない苦労をされた人からの言葉だったからこそ、僕らはその「重さ」を感じる事が出来る。
 僕は「転移のための十篇」が好きなのですが、少し引用します。
        
         ぼくはでてゆく 冬の圧力の向こうへ
ひとりっきりで耐えられないから たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから
ひとりっきりで抗争できないから たくさんのひとと手をつなぐというのは卑怯だから
     ぼくはでてゆく すべての時刻がむこうがわに加担しても

    ・・・ぼくは疲れている がぼくの瞋りは無尽蔵だ


吉本さんは孤独で戦うことに自覚的だった。だからこそ、人間の本質や悲しみの声に限りなく近い距離で耳を傾ける事が出来た。僕らは本当に偉大な存在を失ってしまいました。

       ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる

 長い戦いの果てに、吉本隆明という「一つの直接性」が倒れてしまった。しかし、吉本さんは僕らに十分すぎるほど僕らに残してくれた、それは「いつも孤独で戦う」と「優しさ」だ。「3.11」に立ち会ってからほぼ1年後の今亡くなられたというのも「これは僕の問題じゃない、君たちの問題だ」と吉本さんが暗におっしゃられているように思えてならない。
 僕らは、どうだろう、「冬の圧力のむこうがわ」の境地に辿りつけそうにはないかもしれない。でも冬の圧力に立ち向おうとする事は出来る、ひとつひとつの直接性として。