濡れない男
あぁ、そうだった。雨が降っているのだった。
雨というものに疎くなってきた。最近いつもそうだ。
いくら雨が降ったところで、それは自分には関係のないことだった。仕事を失って以来。
住んでいる部屋は商店街の中にあって、日課は商店街の中のエクセルシールで新聞と本を一日中読むことで、それ以外に行くところはどこにもなかった。お腹が空いたらかけそばを食べればいい。もちろん、商店街の中の。
雨は音に過ぎなかった。
ザーザーザー。
ポツポツポツ。
雨に濡れない方法は簡単だ。社会に背を向ければいい。目的地を捨てればいい。皆が仕事や遊びのために目的地を持ってしまっているから、人々は雨に濡れることを避けられない。アイスコーヒーを飲んで、俯いて、人の顔を見ないで、新聞や本に書かれている文字だけを追っていることで充足感を得られる人間になれさえすれば、雨なんてただの音楽に過ぎない。
その日も僕はアイスコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
安保法案の可決、デモ、TPP大筋合意、芸能人の死、株価の上昇、すべてが僕とは関係ないと思っていた。結局は、それらは目的地を持って外に人間たちにとっての問題だった。雨と同じように。濡れる可能性があっても進まなければならない人間にとっての。
今、カフェの店内に30分ほどずっとぐるぐるフロアを回っている奇妙な男がいた。席は十分に空いているにもかかわらず。男は黒いトレンチコートを着て、マジシャンハットを被っていて店内で目立っていた。それは自分と無関係。目的地がない、僕のような人間にとっては。
「なんてこと、考えてます?」
気付くと男の顔は僕の横顔のすぐ近くにあったのだ。